平和でなければ釣りもできない

夕暮れの釣り

終戦記念日近く(本日は2017年8月13日)、平和への願いを込める意味もあり、ここに釣りを絡めて思い出したことを記しておこう。

淀川城北地区でのナイト・バッシング

家から車で10分、自転車でも10分程度のところに淀川城北地区がある。

ここのワンド群と本流は淀川でも「バス釣り」のメッカ的な所。アクセスが良くて釣り人も多い。

さて、かれこれ10年以上前のこと、僕はこの淀川城北地区に三日と開けずにナイト・バッシングに出かけていた。僕はすでによい歳をしたオッサンであったから、一応釣り方にこだわることにして「トップウォーター・プラグ」のみで釣りに挑んでいた。(残念ながらフライフィッシングではない)

この現場では真夏の異常な高水温期を除いてまずまずは釣れた方だと思う。実はトップウォーター専門で狙う淀川城北のナイト・バッシングとしてHPを運営していたほどだ。

足を踏み外し落水する

それはある年の初夏だったと思う。午前0時近くだったろうか。

いつものように城北河川敷を歩き、ワンドの縁沿いギリギリを狙うキャスティングを行っていた。ワンドの縁は人工的な石組みであるから歩きやすく、ほとんど箱池管釣りのノリである。縁に沿って歩きながらキャストして回るわけだ。

その時、ふと携帯電話にメールの着信。超能力女房からである。ワンドを左側に、その縁ギリギリを歩きながらメールを確認し、返信し終えた。

その時、踏み出した左足に体重を感じることなく、案の定そのまま落水である。ワンドの縁を完全に踏み外しているわけだ。手にしていた携帯電話の画面が発光したままでゆらゆらと水中に沈んでいくのが見えた。

体は左側を下にドボンと全身を水中に横たえた格好となった。

ただし、この岸際の水深は知れたもので、せいぜいが60〜70cm程度。すっくと立ち上がることさえできれば溺れることはない。携帯電話は完全にお釈迦だろうが、それを取り上げとにかく立ち上がった。

ところが、踏み外してしまった左足首に激痛。どうもかなり深くくじいてしまったか何かだろうと思われた。全身ずぶ濡れであったが、左足首の痛みからそんなことはほとんど気にならず、これは早いところ家に戻って手当てが必要と思われた。

とにかく、じっとしていても激痛が走る左足首をなんとかごまかしつつ、タックルを背負って数百メートル離れた車に向かった。

辿りついた車は、これがオートマチックのツーペダルであったことに感謝した。とてもじゃないがMT3ペダルの運転は無理。釣りにはオートマの車がオススメである。

一緒に帰ってきたのは誰か?

家に戻ったのは当然深夜で、家人はすでに就寝中であった。そして自分自身もひと眠りすることにした。足の痛みに関しては、とりあえず睡眠が取れるほどだったのでそう大したことではなかったのだろう。ただし、先に起きた娘が僕の足の事情を知らずに何か「いたずら」を仕掛けてこないかとヒヤヒヤしていたと思う。

さて、朝になってから、腫れ上がった左足首を超能力女房に見せつつ、ことの次第を説明した。

「はああぁ〜〜ん・・・」

超能力女房は長くうなずきながら、何かを納得した様子。

「どうしたん、なんかあるんか??」

「ふぅ〜む、一緒に連れて帰って来たね・・・」と女房。
「え?誰を・・・・」
「子供、まあ、少年って感じの・・・」と女房。
「え?何で、どういうこっちゃ?」
「まあ、言って見れば今度の事件の犯人。足を引っぱってるね」と女房。
「はあ?・・・誰なん、何なん?・・・」

このような会話が交わされ、さらに女房の解説が続いた。以下にそのあらましを記しておこう。

僕が淀川から連れて帰ってきたその少年とは、戦中に淀川城北地区近くの空襲で亡くなった少年の「霊」のことらしい。ま、普通に言ってしまえば幽霊である。

そして、ワンドの縁を歩いている僕の左足を引っ張ったのはこの少年であると。彼は何かたいそうな悪気があってそうしたということもなく、ちょっと悪戯をしてみたというレベル。

彼にはそもそも悪意があるわけでもなく、放っておいてもそのうちに消える(帰る)だろうと女房。

それから、そもそもが淀川城北地区は「そのようなエリア」であると。

しかし、それならなぜそれを最初から僕に教えず、夜中の釣りを止めなかったのかと尋ねると、ちょくちょく釣りに行っていても大丈夫そうであったから、それと、どうやら僕自身がそのようなことに強く、あまり妙な物に憑かれるタイプではないということらしい。

そしてもう一つ、女房がいぶかしむことには、淀川城北地区に関する戦中の史実を僕が知らなかったということだ。これを知った上で夜釣りに出かけていたと思っていたのである。

大阪大空襲

淀川城北地区が特に大きな戦火に見舞われるのは第三回大阪大空襲として記録されている。淀川河川敷は避難場所として使われていたらしいが、そこも機銃掃射で多数の死者。後にわかるがそこだけで千名以上の死者があったという。

また、この河川敷では遺体をそのまま野積みして荼毘(だび)に付され、埋葬された。度重なる空襲により、近隣地区で死者が多数出ているために個別の埋葬など間に合わないという事情もあっただろう。

大阪市旭区の城北にある「千人塚」という慰霊碑は、そのために建てられたのである。

大阪大空襲資料ページ

千人塚についてのメディア記事
第3回大阪大空襲

以上は城北地区に関する戦火の記録一部。


追記1:

左足首はどうなったか?

レントゲンを撮ってわかったが、完全に骨折していた。車椅子と松葉杖の生活が待っていた。

追記2:

この出来事から約1年後のこと。釣り場で知り合ったバサー、彼はオフロードバイクで現場に通っていたのだが、ある日の釣りの帰り道で交通事故に遭う。彼はこの事故で骨折し、入院することになった。

彼を見舞いに女房を伴って病院を訪ねてみた。女房の見立てでは僕の左足首骨折と同じらしい。城北から連れて帰っているとのこと。その霊も何か悪意がるわけでもなさそうで、一緒にいる生身の人間の方が多少調子が崩れることがあるといったレベル。交通事故の原因もそんなところにありそうだと女房談。何もしなくていい。放っておけばいなくなるだろうということで病院を後にした。

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